研究の回想
エジソン経営史〜発明の大量生産と事業化に成功した最初の企業家〜
大学院博士課程の1回生(28歳)の頃、ある研究のためにアメリカのGE(世界最大の電機会社)の社史を読んだ。原書のタイトルは、Men and Volts:The Story of General Electric(1941年)で、著者の名はJohn Winthrop Hammond。

会社の成立から1920年代頃までの発展の経緯を叙述した大作であるが、これによると、1892年の同社の成立に貢献した重要人物として発明家トーマス・A・エジソン(T.A.Edison)の名前が最初に上げられている。GEという会社はそれまで敵対していた2つの会社(Thomson Houston Company とEdison General Electrc Company)がモルガン金融資本の仲介により合併し成立した経緯がある。

発明家エジソンの社会的地位や当時のアメリカの電機産業の生成に果したエジソンの貢献度、Edison General Electrc CompanyのGeneral Electrc Companyを継承して会社名にした事情などから、同社の社史の中でエジソンを会社成立の重要人物として筆頭にあげることは不思議ではない。

しかし、その内容を注意深く読むと、エジソンに対する同社の評価は芳しくなく、寧ろ一方の合併当事者であるエリュー・トムソン(Elihu Thomson)や同社の初代社長となるチャールズ・コフィン(Charles Coffin)の指導力や環境適応性に重きがおかれ高い評価が与えられている。どう解釈しても優秀な経営者であるという評価をエジソンに与えていない。これは一体どういうことか?また、2社が合併する時、一般に力関係で優位にある企業の代表が社長の任につくべきだが、それに反して利害関係の少ない専門経営者(チャールズ・コフィン)が雇われて社長業を行うことになった。

GEとエジソンの関係はいかなるものだったのか、エジソンはなぜ合併に同意したのか、モルガン金融資本との協力関係はどう変化したのか、これらの疑問が浮かんでくる。エジソン経営史(1985〜1989年)はこうして始まった。

蓄音機や白熱灯、多重電信機、カーボン式電話器の発明で有名なエジソンはその生涯で1093件の特許をとっている。しかし、発明家としてのエジソンの業績は世界に偏く知られているが、実業家(経営者)としてのエジソンの本当の姿は、あまり知られていない。 経営者としてのエジソンの能力は次の3点に要約できる。
第一は、学術的研究や科学的真理の追求は一切せずすべての研究を商業的研究(売れる技術・商品の開発)に振り向け徹したこと。科学的法則よりも技術的法則を追求した。
たとえば、エジソンの最大の発明といわれている白熱灯のガラス球内部(真空)にある表面積の小さい炭素フィラメント(1880年特許)は髪の毛のように薄くなっているが、これは、送電用の高価な銅線を節約するためと大きな抵抗をもたせて高温にし白熱化させるための技術的形状となっている。フィラメントが細い理由は経済的、技術的要請から生まれたのである。

発電所から送られてきた電流は各事業所や家庭で分配される。この分配は事業所や家庭の内部でも更に枝分かれしていく。ソケットやスイッチ、コードとコンセントなどもセットにして開発しており電流の分割(並列回路)を最初から意図して設計がなされていた。電力の実用化に向けた総合的な着想から白熱灯を開発したエジソンの先進性については特許をめぐる係争事件の中で裁判所も認めている程である。
だが、電流の分割は当時の宗教界では「神への冒涜」とみなされ非難された。公園や灯台、街灯で使用されていたアーク灯は直列回路で使用され一斉に点灯し一斉に消灯して利用されていた。並列回路の実用化においてエジソンが最初の開拓者であるといわれる所以である。

第二は、発明開発事業の各工程を分けたり多様な専門職をもつ技術者を組織し、分業化と集団化による発明の量産体制を進めたことである。100名近い技術者や事務員を雇い、研究所に集めて、計画的・組織的に発明の量産化を行った。発明の量産のピークとなる1880年に取得した特許は60件であるが、ほぼ6日に1件特許を取得した計算になる。個人で実現できる数字ではない。
発明への着想自体はたしかにエジソンのものであるが、その製品化や改良、販売、製造、特許取得への事務手続き、多様な作業などは、組織的分業体制によってはじめて可能になる。19世紀の社会的制約はあるが、エジソンは、技術開発の分業化、集団化、計画化を主導した最初の開拓者であった。

第三に、ウォール街の金融資本との太いパイプをもち経済界の協力を仰ぎながら大規模な電力事業を成功させることができたことである。(発明家と金融資本家との提携)。そのために、最初の大規模な電力事業(世界最初の電力システム)をニューヨークのマンハッタン地区の財界人の密集するパール街で開始した。自社の商品を売り込むためのチャンスと顧客の対象を的確に認識し抜きん出た才覚を発揮した。

このような長所をもつエジソンにも弱点はあった。それは2点に集約できる。

第一に、直流システムが将来、交流システム(経済的に優位)に取って代わられることを予測できなかったことである。エジソンの頑迷さは交直論争(直流・交流論争)と呼ばれる19世紀末の最大の論争と経済戦をもたらした。
エジソン陣営は直流システムに依拠し、ウェスチングハウス(George Westinghouse)陣営は交流システムを主張して双方で激しい論争を交わした。
エジソン陣営は、交流の危険性を訴えて人心に不安を与えようと交流を死刑執行の手段(電気椅子)にするように示唆し悪質な画策まで行った。1890年、結局、ニューヨーク州当局は電気椅子(交流)による死刑を執行したが、1893年にナイアガラ発電所が交流採用を決定したことから電機業界を二分した技術論争はウェスチングハウス陣営の勝利という形で終結した。

第二に、交流の実質的開拓者であるウェスチングハウスが電機産業で強力な競争相手として台頭してきたことである。この限りでは、エジソン社の将来の競争劣位は明らかであった。

第三に、エジソンはワンマンであり、技術者としてのプライドをもち近代的な組織力(柔軟な思考力と先見性、管理の分業化)を発揮することは不得意であった。これまで一つの会社を起こし、独裁的にふるまってきた歴戦の勇者も複数の旧経営陣や辣腕の取締役を束ねていく巨大企業向けの調整力に欠けていた。この点は、エジソンの永年の友人であったヘンリー・フォードにも共通する。技術にも経営にも精通しトップであり続けることは至難の業であろう。

エジソンの会社が電機産業と電気技術の新しい市場の主導権争いにおいて敗れこれまで培ってきた威信に大きなダメージを受けた弱味に突けいられる形でモルガン金融資本に会社が吸収されていく。
 一般市民が考えるエジソン像とは異なり、晩年のエジソンは大きな成功を見ることもなくGEのその後の発展を恨めしく見ていたのではないか?
GEの社史でエジソンが高く評価されていない理由は以上の点にある。
エジソンの経営史を手掛けたことで、独創的な技術者の個人的魅力に惹かれるとともに、技術や市場を乗り越えて形成される金融資本の巨大な蓄積の波に翻弄される発明家の運命(波瀾の生涯)を知ることになった。

この研究は未完である。機会があれば、アメリカ・ニュージャージー州のエジソン所縁の研究所で必要な資料を精査して補足し、20世紀大企業成立前史の経営管理の特徴を考察し完成させたい。


※主な論文と著作

【論文】
「発明開発事業と特許(1)(2)(3)〜GE成立前史の企業経営・管理〜」
『立命館経営学』
 第24巻第2号(1985年7月)、同第24巻第3号(1985年9月)、
 同第26巻第5号(1987年1月)。

【共著】
「独占成立前史の企業経営と管理」『企業・経営の史的展開』
(上林貞治郎・笹川儀三郎編著、第5章所収、ミネルヴァ書房、1989年初版。)